中央大学附属高等学校位于东京都的小金井市,学校的教育目标是坚持培养学生的主体的、创造的学习欲望,通过建立均衡的基础学力能力,培养学生们理论的思考力和健全的判断力,在进入大学之前养成旺盛的好奇心和丰富的个性。另外,发扬学生们自主。自治的精神,根据学生们的特别活动,养成指导性、协调性和社会性。最后,尊重学生的自主、自律,确立有规律的生活习惯,重视自由和责任,养成作为社会形成者的素质。
「自主・自治・自律」を基本に、
未来を切り拓く力を育てます。
本校は、将来の中央大学生の範となり卒業後は様々な分野で貢献できる人間の育成を目標に掲げて、一貫教育を行っています。基本理念は「自主・自治・自律」。これは、「他から指示されることなく、自分の責任において、自分の立てた規範に従って行動する」ということです。この理念を生徒が身につけるには、生徒自身の自覚と努力も大切ですが、それを導き、支えるための教育体系を教職員一体となって実践していくことが不可欠です。そのために本校では、多彩な教育プログラムと充実した施設・設備を整え、一人ひとりの生徒と向き合う指導が行われています。中学生には、基礎知識とともに、自分の頭で考え、判断し、行動する習慣を身につけてほしい。高校生には、それに加えて、ものごとを探求する力、自分の考えを表現する力、まわりと協調する力を磨き、自分の資質を最大限に発揮できる最適な進路を選択してほしい。他者に共感して生きていく上での「基本的な力」を、一貫教育のもとでじっくりと鍛え上げていくという意味で、本校は、知識の詰め込みに偏重しない、知識を踏まえた社会を生きる智慧を涵養するという広い意味での全人教育を志向します。
自分で決めて、
まっすぐ歩む。
「自主、自治、自律」。
中附の基本精神はここにある。
生徒たち自らの活動を尊重する校風。
自分で、あるいは自分たちで考え、
決める力、そして実行する力をつける。
そこには、楽しいことだけでなく、
むずかしくて大変なことも多いけれど、
だんだんと頼もしい自分ができていく。
実のある学校生活が待っている。
中学生は中学生なりの、高校生は高校生らしい、判断する力と実行する力を磨いて、未来を切り拓ける人間に育ってほしい。
生きていく力を育む学校。
たくましく伸びていく場がここにある。
中央大学附属中学校・高等学校
沿革
1909年2月22日 - 東京府豊多摩郡落合村(現・新宿区下落合)の近衛篤麿公爵家屋敷地内に、東亜同文会が中国人留学生受け入れ施設である東京同文書院に併設教育機関として「私立中学校設立許可願」を文部省に提出。設立者・細川護成および柏原文太郎。
1926年10月 - 東京府北多摩郡上練馬村(現・練馬区高松町)に移転
1935年4月10日 - 杉並区へ移転、翌11日には杉並中学校に改称が認可される。初代校長に岡本隆冶就任。定員500名。
1948年4月 - 学制改革により、新制の杉並中学校・杉並高等学校へ改組。
1952年5月 - 杉並中学校・杉並高等学校の運営法人である学校法人杉並高等学校と学校法人中央大学の合併が認可、中学校廃止、校名を中央大学杉並高等学校と改称。
1963年1月 - 中央大学杉並高等学校を母体として中央大学附属高等学校の設立が認可される。
1963年3月 - 小金井市貫井北町へ移転。跡地には新設校として中央大学杉並高等学校を設置。
1963年4月 - 中央大学附属高等学校と改称。初代校長 岩本春市就任。
1966年4月 - 第2代校長 金子文六就任。
1968年2月4日 - 中大文化連盟サークルおよび社会主義学生同盟を中心とする700名の中央大学生により早朝から校内にピケが張られて中央大学への内部進学試験が阻止され、「学内進学試験」はこの年以降廃止されることになる。
1969年5月29日 - 第3代校長に伊津野正就任。
1969年10月16日 - 「中大附属反戦会議」が生徒会中央委員会にビラ配布の許可申請を求め、同時に「生徒心得第9条」の廃止と「生徒指導部解体」運動を展開。
1969年10月27日 - 「反戦系」の生徒が午前3時から校舎にバリケードを築き学校を占拠。学校当局は警察を導入、多くの生徒は逃走できたが3名が補導の形で検挙される。
1970年6月23日 - 生徒会有志が中心となって組織された約200名の中央大学附属高等学校生徒の「反安保デモ」が高等学校から中央線武蔵小金井駅まで行われる。この時期、職員会議も生徒の諸活動をその自主性に委ねるということに決定。
1970年10月15日 - 生徒総会において従来の校則を撤廃し自治綱領として現行「学校生活」を制定。自由化の基礎が固まる。
1971年7月20日 - 学内の自由化達成 制服・校則全廃。国歌斉唱国旗掲揚等の形式的式典の廃止。伊津野正校長が同日の終業式で自由化決議承認を全生徒に通告。
1972年4月1日 - 伊津野正校長が教員のための研究条件の向上と民主化制度「高等学校専任教員研修日実施要綱」を発効させる。また1学年定員550名を500名に削減し教育条件を改善。
1973年10月15日 - 伊津野正校長辞任。後任に同年10月22日小松春雄教授が第4代校長として就任。
1974年12月16日 - 冨田彦一教頭が第5代校長として校長に任命。
1975年11月 - 第二体育館竣工。
1978年3月 - 図書館竣工。
1982年2月1日 - 中央大学附属高等学校教職員組合が教職員実子についての特別入学、運動部についての特別入学、およびその他縁故者子弟の特別入学の全廃を冨田彦市校長に要望書を提出し、これを契機に「特別入学」を全廃、入試の公正を実現。
2001年4月 - 男女共学・週五日制実施。
2003年3月 - 1号館改築工事竣工。
2003年4月 - 第10代校長金子雄司就任。
2010年4月 - 附属中学校を開設。
校風
目白中学校以来の国際的な校風と同校以来の校訓「質実剛健」を基盤とし、中央大学附属高等学校の特色は「個人の尊厳を尊重し自由に個性を伸ばす」ことを最も重要な教育方針としてきた。そのため現在でもいわゆる校則は存在せず、極めて自由な校風が特徴である。
旧制目白中学校・旧制杉並中学校・杉並高校時代には「目白の丘にその昔たてし理想をうけつぎ強く正しく培える杉並高く今茂る 文化の光暖かに自治の心を育みて清く明るく生いたてる桂の若葉今匂う」等の校歌が存在していたが、中央大学附属高校へ合併・移転以降、独自の校歌を廃した。したがって、式典や硬式野球部の大会時に使用されるのは中央大学の学歌である。
大学進学において、中央大学(約9割が進学)のみに限定されず、他の国公立大学・私立大学にも自由進学が担保(特に中央大学の設置していない学的領域(discipline)は優先・優遇)される。中央大学進学の優先権を保持したまま他大学への併願受験・進学・進路の自由の担保をその特色としている。なお、中央大学内部進学者の優先と、他大学で同一学部を有する大学への進学の際には中央大学内部進学の推薦の優先権の放棄化への変更がなされている。 |